伊豆豪族と頼朝のコドモたち

流人頼朝が伊豆でかかわりを持った豪族たち、
またその「かかわり」の結果生まれたコドモたち…をご紹介します。

現在15名
北条ファミリー
北条時政政子義時大姫頼家乙姫実朝公暁
伊東ファミリー
伊東祐親河津三郎祐泰曾我兄弟伊東祐清八重姫千鶴

北条ファミリー
北条時政ほうじょうときまさ
鎌倉幕府の黒幕オヤジ
享年78(1138〜1215)
伊豆国田方郡北条の豪族

通称:北条四郎/法名:明盛
役職:鎌倉幕府初代執権

流人の頼朝を監視する平家方の豪族だったが、娘の政子が頼朝と結ばれるに及んで後見人となった。源平合戦の間はつねに鎌倉にて幕府創設に尽力した。九郎義経都落ち以降上洛して京都守護にあたり、義経探索や平家残党狩りにいそしんだ。頼朝死後は敵対する豪族を次々と滅ぼし、幕府における北条の力を磐石にした。だが、次第に奸佞な後妻・牧の方の言いなりとなり、彼女の長女の夫・平賀朝雅を優遇し、これに対立する畠山を謀殺した。さらに朝雅を将軍にするため実朝暗殺を企てたが発覚し、朝雅は誅殺、時政は出家を強いられた。余生は伊豆にて不遇な隠居生活を送ったもよう。

北条政子ほうじょうまさこ
北条政子 最恐無敵の尼将軍
享年69(1157〜1225)
北条時政の長女
/生母:伊東祐親の娘という説も
通称:万寿御前 朝日御前/法名:如実 妙観上人
役職:従二位

二十一歳の時に父時政のすすめる伊豆目代山木兼隆との結婚を蹴って流人の頼朝と結ばれた情熱的でとっても嫉妬深い性格の女性。しかしダンナの頼朝は病的なまでの浮気性。よってしょっちゅう傍目もはばからぬ夫婦ゲンカをやらかした、しかもいつも勝つのは政子。頼朝の愛妾・亀の前は家を壊され命からがら逃げ出した。度胸があって頭もよく、政治手腕は男勝り。幕府存続と権力掌握のためには血族を犠牲にすることもいとわなかった(内心はつらかったのかも知れないが)。御家人衆をまとめ武家社会の基盤を固めた功績は頼朝と並んで、いや頼朝以上に大きいが、やっぱりあんまり身内にはしたくないキャラクター。ただ、や大姫ら女性陣には優しい一面もみせている。

北条義時ほうじょうよしとき
政治上手のクールな義弟
享年62(1163〜1224)
北条時政の次男
/生母:伊東祐親の娘という説も
通称:江間小四郎
役職:鎌倉幕府二代目執権 相模・陸奥守 右京権大夫 従四位下

父や姉政子らとともに旗揚げ以前から頼朝に味方した。源平合戦には途中から範頼軍に参陣し、奥州征伐にも従軍するが、さしたる武功はなく、その能力はもっぱら政治面で発揮された。頼朝死後は頼家、実朝を擁し、幕府を牛耳った。対抗する御家人衆を次々と討ち、公家対武家の戦いとなった承久の乱では敗れた後鳥羽上皇を流刑にするなど、どんな場合にも情に流されぬ苛烈な処断を取る、有能だけど冷徹な男でもある。

大姫おおひめ
大姫
一途な引きこもり娘
享年20?(1177、8〜1197)
頼朝の長女

五歳の頃、人質として鎌倉にやってきた木曽義仲の嫡子義高を許婚としてあてがわれた。だがその翌年義仲敗死に及んで義高は頼朝の命で処刑されてしまい、大姫はショックのあまり心を閉ざして引きこもってしまう。冷徹な頼朝も政子もこれにはまいった。一条能保の息子高能との婚約話、後鳥羽天皇への入内計画、すべての縁談を頑なに拒んで、殺された許婚への思いと父への憎悪を二十歳で病没するまで抱き続けた。そんな彼女は、同じく不幸な愛に生きる女・静御前にシンパシィを感じていたもよう。

頼家よりいえ
頼朝長男・ワガママ不良息子
享年23(1182〜1204)
頼朝の長男

乳母:比企尼の娘/妻:若狭局(比企能員の娘)
幼名:万寿
役職:従二位征夷大将軍 左中将

父頼朝の急死により若くして家督を継いだ彼は無能で驕慢、蹴鞠大好き女大好き男もOKという困ったちゃん。当然御家人衆からは非難ゴウゴウ。彼を担ぐ北条氏も建仁三年(1203年)に彼が病で危篤に陥ったのを期に弟実朝に家督を相続させることに。これに怒った頼家は比企能員とともに叛乱を起こすが、逆に誅され、比企一族は滅亡。頼家は修善寺に幽閉され、その翌年、おフロ入ってる時に鎌倉からの刺客に惨殺(なんかスゴイやられ方だったみたい)されてしまった。

乙姫おとひめ
父に続いて急死した次女
享年15(1185〜1199)
頼朝の次女

幼名:三幡

姉の大姫が入内計画のさなかに急死したことから、代わりにこのコを嫁がせる話が持ち上がっていた。しかし父の頼朝が急死、さらにこのコもすぐあとに急死したことから入内計画は完全に立ち消えに。このあたりの背景にどうもキナ臭さを感じるのは私だけではないはず。みんな立て続きに死にすぎ…

実朝さねとも
頼朝次男・無力な京オタク
享年28(1192〜1219)
頼朝の次男

幼名:千幡
役職:鎌倉三代将軍 右大臣

父頼朝の急死、兄頼家の失脚により十二歳にして将軍職についたが、その頃すでに実権は北条氏のもの。ゆえに本人はつれづれなるまま好きな歌を詠み、京文化に憧れてひとり風雅にすごしていた。お嫁さんも京女じゃないとヤダとごねた。血なまぐさいおのれの身辺によほどイヤ気がさしていたのか、大船をつくらせてはるか中国(宋)に渡ろうとまでした。ところが完成した船は大きすぎて海上まで運べず、鎌倉脱出計画はあえなく頓挫。そののち鶴岡八幡宮にて任右大臣の拝賀を行っていたところを参道のイチョウの木陰に隠れていた公暁(兄頼家の子)に殺されてしまう。

公暁くぎょう
源氏を絶やした源家の子
享年20(1200〜1219)
頼家の三男
/生母:賀茂六郎重長の娘
幼名:善哉

父頼家が誅殺されたため六歳で鶴岡八幡宮別当の弟子となり、翌年政子の命により叔父である実朝の猶子となった。十二歳で出家、公暁と号し園城寺で修行した。十八歳で鎌倉に戻った時、乳母夫の三浦義村に父頼家の仇である北条義時の暗殺をそそのかされたもよう。鶴岡八幡宮での実朝任右大臣拝賀の際、不意を襲って実朝の首を斬り、さらに参列していた赤の他人を義時とまちがえて殺害した。しかしほどなく義時配下の者により捕らえられ、斬殺される。これで源氏は絶え、名実ともに北条の世が始まる。

伊東ファミリー
伊東祐親いとうすけちか
できちゃった婚許すまじ
享年?(?〜1182)
伊豆の豪族
/長女の婿に三浦義澄
通称:河津二郎
北条氏ともども流人頼朝を見張る平家方の豪族で平重盛に仕えていた。しかし大番という三年間の都づとめの間に娘の八重姫が頼朝とネンゴロになり,、子供まで生んでいた。祐親大いに怒り、子供を取り上げ滝つぼに捨てて殺し八重姫は別な男のもとへやり、強引にふたりの仲を裂いた。そういういきさつもあり、頼朝の旗揚げに際しては当然平家方についた。しかし形勢不利となり、京に逃れようとしたところを頼朝サイドに捕まった。娘婿である三浦義澄が彼の身柄を匿って頼朝に助命を求めていたが、祐親自身はそれを潔しとせず、自害した。

河津三郎祐泰かわづさぶろうすけやす
父のモメゴトで殺された不幸な長男
享年?(1144〜?)
祐親の長男

伊東家の親族に工藤祐経なる男がおり伊東祐親の娘を妻としていたが、領地問題でもめた時に所領も妻も祐親に取り上げられてしまった。祐経はそれを恨んで祐親を付け狙っていたが仕損じて、代わりに祐親の嫡子である河津祐泰を斬り殺してしまった。その不幸な祐泰の子供らが、やがて父の仇討で歴史に名を残すことになる曾我兄弟である。

曾我兄弟そがきょうだい
語り継がれる「仇討」美談
享年・兄22(1172〜1193)弟20(1174〜1193)
祐泰の子 兄・十郎祐成 弟・五郎時致

領地争いで父を工藤祐経に殺された兄弟。いつか仇を討たんと長年時機を待っていた。建久四年(1193年)頼朝が催した富士野の巻狩りにて、夜陰にまぎれて宿舎に押し入り泥酔した工藤祐経を難なく討ち取るが、その後の行動が奇怪。そのまま頼朝の幕舎にまで押しかけていったのだ。父の仇討ついでに頼朝暗殺を誰かに頼まれていたのでは?との疑惑も。ともかくその折に兄は討死し、弟は生け捕られてのち工藤祐経の親族に引き渡されて処刑された。ちなみに弟は元服の際、北条時政に烏帽子親になってもらっている。

伊東祐清いとうすけきよ
頼朝流人時代の友
享年?(1144以降〜1183)
祐親の次男

通称:九郎
妻:比企尼の三女

流人時代の頼朝とは親しかったようで、妹八重姫と頼朝との仲を取り持った。のち祐親がふたりのことで激怒した時も、殺されそうになっていた頼朝を伊東の地から逃して助けた。しかしのちに頼朝が旗揚げした時には平家方についた父に従う道を選んだ。ほどなく頼朝側に捕縛されて投降を促されるもこれを拒み、放免されるとふたたび平家に加担して、木曽源氏との戦い「篠原合戦」にて敗死した。頼朝との友誼よりも父への忠義とおのれに課せられた責任を最後まで貫こうとした、意志の強い男である。

八重姫やえひめ
父にわが子を殺されるなんて…
享年?(?〜1174)
祐親の三女(四女とも)

二十五歳頃の頼朝と結ばれ、男の子(千鶴)を生んだ。しかし怒った父祐親により子供は殺され、夫頼朝は追い払われ、自分は見知らぬ男のもとへ強引に嫁がされてしまった。それでも頼朝を忘れられず屋敷を抜け出して彼のもとへ走ったが、その頃すでに頼朝は北条政子とデキていた。絶望した八重姫は伊東へ戻り、わが子の捨てられた同じ淵に身を投げて命を絶ってしまった。

千鶴ちづるorせんつる
命短し頼朝の初子(たぶん)
享年2(1173〜1174)
頼朝と伊東の八重姫の間に生まれた男の子。流人の子など匿っていては平家に謀反の疑いをかけられる、と怯えた伊東領主祐親によりわずか二歳で滝に投げ込まれて殺されてしまった。頼朝にとってはおそらく初めてのわが子。その怒りと無力感は、きっと相当のものだったはず。だけどのちに弟の九郎義経に対してまったく同じ仕打ち(静との間にできた子を奪い取って海に投げ込んで殺した)をしているんだから、その心理はいったい…どんなだったの頼朝さん。